2011年2月27日日曜日

簿記試験

今日は簿記2級の試験を受けてきました。過去には申し込みだけしておいて、試験に行かないとか乱暴なこともしましたが、今回は職場の若手全員が任意で受けることになっていたので敵前逃亡できるわけもなく、受けにだけは行ってきました。

任意とはいえ半ば公式的に勉強できるので、業務を早めに切り上げる口実もできたのですが、実際のところは早く帰っても勉強できなかった。いや、しなかった。自室の投資を行っていて、各種アイテムが揃っていくので、その対応に時間を割いていたのは確かだけど、それ以上にブラウジングやマンガなど、楽な方、楽な方へと逃げてしまう。

こうやって与えられたチャンスは一つひとつモノにしていくことで、ちゃんと結果を残すヤツだと認められて、さらに大きなチャンスを与えてくれることはわかってる。現在のように大きな会社に入っても絶対的に安全というわけではなく、むしろ世界をまたにかけているような大企業はグローバルの中で戦っていかざるを得なく、その分リスクが大きくなることも分かっている。これから大きな変化を迎えようという世界において、大切なのは肩書きやブランドでもなければ、貯金でもない。純粋な個人としての実力であることも分かっている。

でも、できないんだな。

受験前に通して2回問題を解いている。そもそもたった2回しかやっていないのが致命的だけど、その2回のテストの点は30点前後。そんな点数を知ってもちゃんと勉強しようと思わないなんて。



初めて簿記の試験を受けてみて、案外簡単だと思った。とはいえ、(実感からして)合格点には遠く及ばないのだけど、それは必要な知識がなかった(勉強しなかった)からだ。試験の性格上、落とすための試験ではなく、受からせるための試験なんだろう。過去問に忠実に沿って出題されているし、出されやすい問題も変わらない。

大学受験の時はそもそも出題範囲が広かったし、傾向も変化しやすい。そして受かる人数があらかじめ定められていて、その枠に入れなければどんだけ点数が良くても入れない。競争社会の縮図みたいな試験で、問題も相当に難しい。

正直もったいないと思う。やればできる試験で落ちるなんて。少なくとも過去問をひと通りやっていたら受かっていただろう。(もちろん2級相当の知識があるとは言えないんだろうが)試験が終わった今では、難しかったなではなくて、なんで勉強しなかったかなっていう後悔しかない。

試験に向けてちゃんと勉強したと言えるのは、若手で集まって勉強会を開いた2回だけで、それ以外は一切勉強してなかった。3級の勉強をちょっとしていたし、業務内容からして工業簿記でアドバンテージがあるものの、2回で半分くらいの点が取れる試験。。。情けなくなる。



今までもそうだけど、どうしたら目的を達成するために行動できるだろうか。

みんなと勉強会を開く。
ひとりだけではないから、途中でやめることはできない。わからなかったら相談もできるし、飽きてきても周りが勉強しているところを見て刺激を受けられる。ただし、みんなの都合もあるから簡単には集まれないのが欠点。

あらかじめ予定を入れる。
予定を入れて時間を確保し、その時間で必ず勉強すると自分に約束する。

制限時間を設ける。
だらだらやると、やる気も効率も落ちる。模試や過去問を時間を決めて解いている時と、問題集やテキストをはじめから潰していくのでは進捗状況が明らかに変わる。到達目標を立てるよりも、時限式のほうが自分にはあっている。

問題を解く。
問題に答えるというのは勉強をする上で最も重要なことだと思う。答えるために知識を集め、考え、ロジックを組み立てる。逆に言えば、すごい成果を出したければ、すごい問題を作り上げることが必要。それに資格試験では過去問は宝の山。ここからほとんど問題が出る。

とにかく手をつける。
簿記なら1題、ブログなら1段落、本なら1ページ先へ進める。全く何もやらないよりは先に進めるし、スタートのハードルを下げてやることで、とっかかりやすい。一度始められれば、波に乗って続くかもしれない。

何をやるかを考えさせない。
自分が何もやらないときは、何をやるかわからないはもちろん、いくつか選択肢があって、どれにするかやろうとする直前に悩んでいるとき。優先順位をつけて、ハードルをひとつ越えるまでは一切変更しないことが必要。

次はない。
今度やればいい、は封印する。



やっぱり行動する人が結果を残すようになっているんだよね。才能云々は行動を起こした人の中では議論される余地があるかもしれないが、同じ土俵に立たないのではいくら才能があっても意味はなし。

次の試験は6月。担当に変更がなければ時期的にも最高な条件下で試験が受けられるハズ。鉄は熱いうちに打つしかないんだよね。

まとめはまた今度の機会に。

2011年2月13日日曜日

スノボ @九重

昨日は大分の九重森林公園スキー場へスノボに行ってきた。

ざっと思い返しても6年ぶり。浪人の時は行ってないからきっとあってる。6年ぶり3回目と周りには言ったけど、意味合いとしては正しくはなくて、むしろそういう表現は卑怯かも。なぜなら高校の時の2回はそれぞれ泊りがけで行ったので3日分に当たるから。つまり6年ぶり7回目に相当するんだよね。

なんでこんなことを書くかというと、思ったよりうまく滑れたから。もっと転けるかと思ったけど、そんなんでもなかった。体で覚えたことは忘れないというのは本当らしい。

九重の天気は最低。行きの段階から雪がすごくて高速ではホワイトアウトでほとんど前が見えないし、一般道に降りてからはいきなりスリップするし。正直言って運転しなくてよかった。

スキー場も雪と風が強かった。頂上では真っ白な景色に、-11℃の超極寒で、風が吹けば雪が針のように刺さる。リフトが3つしかないスキー場のくせに6000円もリフト代はするし(あとで1000円返ってくるけど)、狭いし、一番低いところは傾斜なくて滑らないし。トータルの感想は苦労した割に満足感が少ない。

ただ1点よかったのは上述したとおり、うまく滑れたこと。もちろん爆発(注:激しく転けること)はしたけど、最後の方には感覚を掴んで体のバランスを保てるようになった。

水泳とは異なる体重移動をするけど、基本は同じ。案外体を倒して体重を預けてしまうほうがうまくいくこともわかった。今回は視界が悪く、スピード感が薄れていたのも良かったのかも。転けたときの恐怖を感じてスピードを下手に殺そうとすると逆にこけてしまうことが多かったので、思い切りよく攻められたのがよかった。

次回がいつになるのか定かではないけど、今度は広くてもうちょっと上級コースが多いところで滑りたい。広島あたりがいいらしいけど。

続きは後で考えるとして。

2011年2月11日金曜日

モノから得られる幸せ

年々モノから得られる幸せが減っている気がする。

裕福な家庭ではなかったから子どもの頃は、誕生日かクリスマスかしか欲しいものを買ってもらえなかった。だから欲しい物を買ってもらえる誕生日やクリスマスの1ヶ月以上前から欲しい物を探して、カタログを集めたり、広告を切り取ったり、もらったら何に使ってどう遊ぶかを寝ても覚めても考えていた。

欲しい物をもらったら嬉しくて嬉しくて片時も肌身離さず持っていて、寝るときは枕元に置いて寝て、親にからかわれたことも多々あった。ひどい時には風呂にも持っていった気がする。それくらい熱狂的に欲しがり、手に入れるまで気持ちを高め、得られたときに幸せに浸る。

その一方で大事にしていたものが、壊れたり、なくなったりしたときは必死になって探したし、諦めきれなくて泣いて親に迷惑をかけた。

子どもの時はモノにいろんな感情を抱いていた。

今はどうだろう。手に入れて感情がひどく揺さぶられることはめったにない。なくなったときは焦ることもあるけど、それはモノそのものに対してではなくそのモノの内側にある情報や価値だったりする。

ここ数年で手に入れて興奮したものはいくつもない。一瞬「おー!」と思っても長く続かない。学生時代には手も出なかったような価格のモノもたくさん手に入れてきたけれど、持ってて幸せだと感じられたものは少ない。最近だとiPhoneくらいだろうか。

Apple製品ではiPhone以外にも、iPod touchやiPad、MacBook Airなど手に入れたけど、どれも強烈に幸せって思えてないかも。たしかにMacBook Airなんかは初めて起動したときのデモ映像があまりにも衝撃的で、Apple仲間に入ることを歓迎されていると感じられてわくわくした。でも長く続かなかった。

社会人になり、自由なお金を得て好きなモノを買う。ECが普及して外に買いに行かなくても手に入る。一般消費財なら24時間いつでも手に入る。

大量生産・大量消費の時代で似たものが多く存在し、次から次へと新しいモノが売られている。売る側はその新しいものをこれまでのモノにはないいいモノとして魅力的な宣伝を打ち、私たちにアピールしてくる。それに釣られてすぐに飛びつく。

本当に必要なのか精査もせずに、なんか便利そう、とりあえずあったらいいかもと思えるモノで、経済的にも負担がなさそうなら即決で購入する。でも実際に買ってみるとイメージと違ったり、他にいいものが見つかって心移りしたりして、買ったものに愛着がわかない。

こんなことでモノから幸せなんて感じられるはずがない。
満たされた欲望は、ただの購入欲か、所有欲に過ぎない。

ある程度社会から認知され、ある程度評価があり、ある程度欲しがる人が多いモノを購入できること。実際に所有して周りの人に知ってもらうこと。自分で見出した価値ではなく、人の評価によって自分の幸せの量を計っているから感動も薄い。

もちろん別にモノから幸せを得ることがいいわけではない。モノは道具であると割りきって買う人もいるだろうし、モノはステータスの媒介だと思ってもいいし、モノを購入することで幸せを得てもいいし、モノを所有することで幸せを得てもいい。

大切なのは自分が欲している幸せはなんなのか。

精神論みたいだけど、ここを通らずしてこの問題は避けて通れないと思うんだよね。幸せってなんなのかって考えると難しくて頭痛くなるけど、何をしていると幸せって思えたのか考えてみるといいのかな。

このブログを書いて思い出したのは、子どもの時に教えられた父親の言葉。
「欲しい物があったら3ヶ月我慢しなさい。3ヶ月我慢してそれでも欲しかったら買ってあげる」
子どもの頃は3ヶ月なんて長くて待ってられるか!って思ってなんてわからず屋で厳しい親なんだって憤ったものだけど、今ならその大切さもわかる。

3ヶ月想い続けられるってことは、本当にそれが欲しいから。じっくりと吟味して、他の似たようなモノと比較して、自分がそれを使っているところをイメージして、それでも欲しいという気持ちが残ったら、それはモノも気持ちも本物だということがわかる。気持ちを熟成させないでモノを得ても、嬉しさは感じないし、モノも大事にしないから、結局ムダなお金を使うだけになる。それを父は戒めていたんだと思う。

ここ数年で購入したもののうち、そんな思いをして手に入れたモノはあっただろうか。勝手に運命と決めつけて衝動買いしたものが部屋には溢れている。なんて安い運命。

簡単に手に入れても、いいことばかりではない。本当に欲しいモノを手に入れよう。



続きは後で考えるとして。