2011年2月11日金曜日

モノから得られる幸せ

年々モノから得られる幸せが減っている気がする。

裕福な家庭ではなかったから子どもの頃は、誕生日かクリスマスかしか欲しいものを買ってもらえなかった。だから欲しい物を買ってもらえる誕生日やクリスマスの1ヶ月以上前から欲しい物を探して、カタログを集めたり、広告を切り取ったり、もらったら何に使ってどう遊ぶかを寝ても覚めても考えていた。

欲しい物をもらったら嬉しくて嬉しくて片時も肌身離さず持っていて、寝るときは枕元に置いて寝て、親にからかわれたことも多々あった。ひどい時には風呂にも持っていった気がする。それくらい熱狂的に欲しがり、手に入れるまで気持ちを高め、得られたときに幸せに浸る。

その一方で大事にしていたものが、壊れたり、なくなったりしたときは必死になって探したし、諦めきれなくて泣いて親に迷惑をかけた。

子どもの時はモノにいろんな感情を抱いていた。

今はどうだろう。手に入れて感情がひどく揺さぶられることはめったにない。なくなったときは焦ることもあるけど、それはモノそのものに対してではなくそのモノの内側にある情報や価値だったりする。

ここ数年で手に入れて興奮したものはいくつもない。一瞬「おー!」と思っても長く続かない。学生時代には手も出なかったような価格のモノもたくさん手に入れてきたけれど、持ってて幸せだと感じられたものは少ない。最近だとiPhoneくらいだろうか。

Apple製品ではiPhone以外にも、iPod touchやiPad、MacBook Airなど手に入れたけど、どれも強烈に幸せって思えてないかも。たしかにMacBook Airなんかは初めて起動したときのデモ映像があまりにも衝撃的で、Apple仲間に入ることを歓迎されていると感じられてわくわくした。でも長く続かなかった。

社会人になり、自由なお金を得て好きなモノを買う。ECが普及して外に買いに行かなくても手に入る。一般消費財なら24時間いつでも手に入る。

大量生産・大量消費の時代で似たものが多く存在し、次から次へと新しいモノが売られている。売る側はその新しいものをこれまでのモノにはないいいモノとして魅力的な宣伝を打ち、私たちにアピールしてくる。それに釣られてすぐに飛びつく。

本当に必要なのか精査もせずに、なんか便利そう、とりあえずあったらいいかもと思えるモノで、経済的にも負担がなさそうなら即決で購入する。でも実際に買ってみるとイメージと違ったり、他にいいものが見つかって心移りしたりして、買ったものに愛着がわかない。

こんなことでモノから幸せなんて感じられるはずがない。
満たされた欲望は、ただの購入欲か、所有欲に過ぎない。

ある程度社会から認知され、ある程度評価があり、ある程度欲しがる人が多いモノを購入できること。実際に所有して周りの人に知ってもらうこと。自分で見出した価値ではなく、人の評価によって自分の幸せの量を計っているから感動も薄い。

もちろん別にモノから幸せを得ることがいいわけではない。モノは道具であると割りきって買う人もいるだろうし、モノはステータスの媒介だと思ってもいいし、モノを購入することで幸せを得てもいいし、モノを所有することで幸せを得てもいい。

大切なのは自分が欲している幸せはなんなのか。

精神論みたいだけど、ここを通らずしてこの問題は避けて通れないと思うんだよね。幸せってなんなのかって考えると難しくて頭痛くなるけど、何をしていると幸せって思えたのか考えてみるといいのかな。

このブログを書いて思い出したのは、子どもの時に教えられた父親の言葉。
「欲しい物があったら3ヶ月我慢しなさい。3ヶ月我慢してそれでも欲しかったら買ってあげる」
子どもの頃は3ヶ月なんて長くて待ってられるか!って思ってなんてわからず屋で厳しい親なんだって憤ったものだけど、今ならその大切さもわかる。

3ヶ月想い続けられるってことは、本当にそれが欲しいから。じっくりと吟味して、他の似たようなモノと比較して、自分がそれを使っているところをイメージして、それでも欲しいという気持ちが残ったら、それはモノも気持ちも本物だということがわかる。気持ちを熟成させないでモノを得ても、嬉しさは感じないし、モノも大事にしないから、結局ムダなお金を使うだけになる。それを父は戒めていたんだと思う。

ここ数年で購入したもののうち、そんな思いをして手に入れたモノはあっただろうか。勝手に運命と決めつけて衝動買いしたものが部屋には溢れている。なんて安い運命。

簡単に手に入れても、いいことばかりではない。本当に欲しいモノを手に入れよう。



続きは後で考えるとして。

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